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摂食障害は私の人生

私が生まれた頃はもう日本はダイエットブーム。だからテレビを見ても「ダイエット」の文字や言葉が溢れていた。今のような筋肉があるような健康的な体を目指すものでもなく、ただただガリガリなのが良しとされていた。友達の太ももと自分の太ももを比べては落ち込んでいた。幼稚園の頃から自分の太ももの太さが大嫌いだった。

小学校に上がると、太っている子は「ブタ」とからかわれていた。そのため、太っていることは「悪」であり、痩せていることは「良い」ことなのだと思った。痩せていればいるほど価値のある人間なのだと思うようになった。

思春期を迎えた頃、母親は3つ下の妹の足を見て、「スラッとしてるね」と言った。私はその言葉を褒め言葉と捉え、「妹は痩せていて、私は太っている」と解釈した。他のことでは母は私をいつも褒めてくれるのに、そこだけは褒めてくれなかった。

私は完璧主義だったから、痩せなければいけないのだと勘違いした。だんだんと痩せていなければ可愛くなれない、人間としての価値もないのだと思うようになってきた。

人間の価値は体重がすべてだという体型至上主義になっていった。この時、幼稚園の時からの痩せたい願望のもとで、鏡を見て体型チェックをしたり、体重を測ったり、運動をしたりしてはいたものの、痩せることすべてにとらわれるような生活ではなかった。だが、体型認知のゆがみはあったと思う。

小学校6年生 11歳の夏、運動会で組体操があり、先生たちは児童の体格を見て配置を決めていた。私は軽いと思われたかった。だから運動会の本番の秋を見据えて、夏前から徐々にダイエットを始めた。

食事の量を減らして、運動をした。体重はスルスル減って、組体操では身長の割には上の方の役にまわれた。このかりそめの「成功体験」がわたしをどんどん崩壊させていった。

運動会が終わっても私のダイエットは続いた。痩せることですっきりとした気分になれ、達成感も味わえた。この時は、妹よりも少ない量を食べないと安心できなく、腕の細さを比べて妹より細かったら嬉しかったのを覚えている。

いくら鏡を見ても自分は太っていると感じた。一グラムでも体重が減ると喜んだ。お風呂や勉強も長時間、運動脅迫もあり、座るのが怖かった(立ってカロリー消費しないと不安だった)。朝は6時に起きて家族が寝静まっている中、ラジオ体操を全力で力尽きるまでやった。習い事はソフトボールとクラシックバレエと水泳をやっていた。動かない体を無理やり動かして限界のその先までやり、とにかくじっとしていられず常に動いていた。給食は食べたふりをして全部残した。鬱だと心労で食べられないという言い訳になるので鬱のふりをしていたが内心は常にハイテンションだった。常に頭のなかは食べ物のことばかりで料理本をずっと見ていた。こういう料理が食べられたらという想像をしばかりだった。

他にも、食べていないのに食べたと嘘をついたり、食べたような工作もした。母が忙しい中作ってくれたご飯にも手を付けず、自己嫌悪にまみれ、自分なんか最低だと思った。

だが、もう食べようと思っても食べられなかった。自己嫌悪に陥っても食べるのが怖かった。体重が増えることに関してはこの世のどんなものより恐ろしく、言葉で表現できないほどだった。食べてしまったら、太ってしまったら自分が自分でなくなるような感覚があった。

母親は病院につれていった。病院では毎回「お水を体に入れる」といって栄養剤を点滴してもらっていた。この頃になると体力はなく、学校は休みがちになった。ランドセルが重く、息をするのも一苦労だった。服はぶかぶかでタイツでさえ腰からずり落ちてきた。常に寒くて、眠れず、笑わなくなった。母親は私の姿を見て泣いていた。

11歳の11月のある日、私はついに低血糖症で家で倒れた。救急車で市立病院に運ばれて入院となった。脈拍は1分間に30回、身長150センチで体重は25キロだった。膵臓の値が高く、高コレステロール血症で、骨粗鬆症にもなっていた。当時は生命維持がギリギリの状態だったのだと退院してから言われた。

入院中の移動は全て車椅子。体力がなく、一日の大半を寝て過ごしていた。回復過程でカウンセリングも行ったが、完全に嘘の仮面をかぶってカウンセリングを受けていたためあまり効果はなかった。

このときも完璧なわたしを崩したくなく、入院中一秒も気を緩めることはなかった。30キロになったら退院といわれていたので、とりあえず退院してあとは戻せば言いと思って一ヶ月半で退院した。途中隠れておかしを食べたりなどの過食衝動もあったが、必死に衝動を抑えたのでそこまで酷くはならなかった。

わたしはまた痩せて完璧な体型を手に入れるんだ、という思いに駆られていた。このころになっても母は私のことを「すらっとしているね」と言ってくれなかったので、まだまだ太っているのだと思った。

中学校は普通に通い、運動部でバリバリ運動をしていた。だが、私は太っているという思いは取れなかった。身長は伸ばしたかったのでこのころはがんばって食べていた。太っており、みじめで仕方なかったが頑張った。

高校生になると陸上部に入った。身長も止まったのでダイエットを再スタートした。これでやっと理想の自分が手に入ると思った。しかし、これが地獄の始まりだった。

食べないで部活をした。体重は減り、理想の自分に近づけたと思った。だが、陸上の方ではタイムはどんどん落ちていって自信を失った。体重だけが自信を与えてくれたため、食べないダイエットをしていた。

しかし、タイムが悪くて駅伝のメンバーに選ばれなかったことで何かが変わった。なにかがぷちっと切れたように食べ始めた。食べる手が止まらない。罪悪感に見舞われた。

だが、次の日絶食をすると体重は変わらなかった。過食しては絶食の日々が始まった。しかし、だんだんと体重は増えていった。ダイエット前よりも3キロ増えてしまった。

この頃から成績も落ち、自信を与えてくれるものが何も無くなった。自分が、今まで積み上げてきた完璧な自分がガラガラと音を立てて崩れていった。

高校二年生の夏、ついに私は学校に通えなくなった。ベットから起き上がれなかった。そんな日々が気づけば一週間、二週間、一ヶ月、二ヶ月と増えていき、不登校になっていた。

この頃は過食しては下剤を使っていた。体重はみるみる増えていった。四六時中過食をしていた。冷凍食品をそのままかじった。ふりかけをそのまま食べた。外に出るのが怖くてずっと閉じこもってた。泣きたくても泣くこともできず、死にたくても死ぬこともできず、自分を傷付けたくても、発狂しそうになりながらも必死になってこらえた。言葉にできないくらいの苦しみとどん底を味わった。世界は私をおいてまわっているんだと思った。独りだった。

そんな不登校の日々を送っていたある日、父親に怒られた。勝手に病院に電話をして、病状を洗いざらい聞いた後私が閉じこもっていた部屋に無理やり入ってきて、何で学校に行かないのか、何で普通に食べないのか、このままどうしていくつもりなんだ、というようなことを言っていた。

このころは家族とは一切言葉を交わさなくなり、声も顔も見たくも聞きたくもなかった。私はこのときはっきりとこの家には私の居場所など一ミリもないのだと悟った。

だから、逃げるように外に出た。だが、行く場所などどこにもない。そんな時、高校の同級生から「学校おいで」と連絡がきた。

しぶしぶ秋頃からまた高校に通いはじめた。あの時、なぜ連絡をしてくれたのか、正直大して仲良くもなかったのに。

だが、その子とはのちの高校生活のほとんどを共にし、卒業した今でも一番の友達になっている。人生何があるか、どこにどんな出会いが待っているかは分からないものである。

残りの高校生活は過食しかしてなかった。学校では水なども一切口にせず、家に帰ると過食をした。風呂も入らず、詰めるだけ詰めて下剤を大量に飲んで気絶するように眠った。何か会う約束をしたり予定を立ててもドタキャンすることが多かったので約束することが怖くてできなかった。

今は元気でも一秒後の自分が元気な補償すらどこにもなかったからだ。約束しても当日いけなくなったらどうしようという不安から体調が悪くなりドタキャンすることもあった。友達との付き合いは減り、友達自体も減っていった。

下剤のせいで脱水と低カリウム血症で常にふらふらしていた。当時はまだ吐きたかったけどどうしても吐けなかった。人前でご飯が食べられず、昼休みは保健室に避難した。死にたくてもとりあえず泣きながらでも学校に行った。学校に所属できなくなったら、何者でもない自分になることの方が怖かったのだ。修学旅行は食べることが怖くて行かなかった。

高校は不登校が明けても休みがちだったため出席日数が足りず、一時期は退学を考えていた。そんなある日、絵本作家という職業を知った。

これなら不登校で外に出られない私でもお金が稼げると思い、絵本講座に通いはじめた。高校三年生で進路に悩んだとき、絵本が学べる大学を選んだ。12月からの受験勉強は大変で不安だったけど熱中できることがたのしかった。

下剤がピタッと止まった。不思議と痩せていった。大学生になるとあれほど学校を休んでいた私が毎日授業に出席していた。彼氏もでき、一応は充実した日々を送っていた。

だが、やはり人前で一緒にごはんを食べることに対しての恐怖感は拭えず、お昼休みは憂鬱だった。彼氏とも会うとなったらご飯を一緒に食べることになるので怖かった。

毎日の生活は楽しかったが、レポートやテスト期間になると過食と下剤依存が始まり、体重は増えた。惨めで死にたかった。

大学一年の10月、腎盂炎になり、食べられなくなった。目に見えるほど痩せた。そこから食べなかったら痩せるという方程式がまた生まれてきた。うまく食べることができなくなってきた。2月にパリ旅行にいった時、帰ってきたら2キロ痩せた。ダイエットに拍車がかかる。

この頃、彼氏の愛猫が天国にいき、ショックで彼氏が食べられず痩せていった。なんだか心がもやもやした。もっと痩せたい思いが強くなった。

そんなある日、食べた罪悪感からトイレに駆け込んで指を喉に突っ込んだ。すると吐けた。「食べても吐けばいい」と思った。食べても吐けばみるみる痩せた。嬉しかった。

普通食嘔吐からだんだん過食嘔吐へと変わっていった。酷いときは一日中食べて吐いた。五回過食嘔吐をしたときもあった。吐く回数は毎日になっていた。血が出ても吐いた。体はフラフラだった。コロナの自粛が叫ばれていた世の中、学校も始まらず、過食嘔吐ばかりやっていた。

そんなある日、母親に過食嘔吐がばれた。だが、それを気に母親と摂食障害について話す機会が増えた。治したいと思った。摂食障害についての本を買って読んでみたり、回復したいという思いが強くなった。人生を楽しみたいと思うようになった。だが、どうやっていいか分からず(自分に合った方法が分からず)現在は試行錯誤の日々である。

大学4年間は休む期間と捉え、自分をとことん甘やかそうと思っている。そして、回復が一番だが、4年間で回復できなくてもある程度の道筋は立てられればいいかなと思っている。

家族は母は摂食障害経験者なためある程度の理解はあるが、父はあまり理解のないような感じである。買い置きをよくするのでそれにまつわるトラブルは絶えない。家族関係も一時期よりましにはなっているもの、まだ良くはなっていない。一緒に食卓を囲むのが今も怖く、孤立しがちであり、わたしの存在が母をいつも疲れさせる原因になっている。

彼氏にもつい最近摂食障がいについて打ち明けたが、まだまだ理解はされにくく、関係も悪化した。

 

この体験談を書いた人
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